第八話フグとコッペパン -文化住宅の門出-

 わずかにちょっとそのむかし、あるところにその役目を終えようとしている小さな文化住宅がありました。昭和40年~50年代に多く建てられた二畳の台所と和室が二間だけの部屋が、一階、二階に3軒ずつあるような建物です。今ではすっかり古びてしまい、ほとんどが空き部屋になっていました。

 わたしはいつものように弁護士と車で、交渉に向かいました。今回の相手は、50代半ばの一人暮らしのおばさんで温厚なかたです。
「先生、今日で交渉も終わりますね。家主さんにも借家人のかたにも満足してもらえる結果になりましたねぇ。」
わたしは運転しながらそう言いました。
助手席の弁護士はのんびりした声で返事しました。
「そうやな。わしは最後の出番やな。 立ち退き承諾書 にサインしてもらって、任務は完了や。」
「はい、そうです。」
やがて、文化住宅があらわれ、近くのコインパーキングに車を停めました。
「ほな行きましょか。」とわたし。

 ドアの前に立った私たちは、ブザーを鳴らしました。しかし返事がありません。
「あれ、おかしいなぁ。今日伺うことはちゃんと伝えたんですが。時間を間違えたかな。」
時刻は夕方の5時です。「先生どうしましょ?お留守みたいです。」
「17時と7時と間違えてないか?まぁええわ、買い物でも行ってはるんやろ。喫茶店ででも待って、もう一回来よか。」
「この辺にそんなんありましたかなぁ。」
「ちょっとお腹もすいてきたなぁ。」
二人であたりを歩いていると、
「お、こんなところに寿司屋があるやないか。」と弁護士。「鍋って書いてある。どうせなら てっちり でも食べていこう。」
「えぇっ大丈夫ですか?時間あります?」
「かまへん、かまへん。あの人はすぐには帰らへんよ。」
弁護士はそう言いながら店に入り、座敷に座ってしまいました。すぐ帰ってこない根拠はないけどなぁ、とは思いつつ、他に手立てもありません。訪問の日を改めるぐらいならと、弁護士の言うとおり美味しいものでも食べて待つことにしました。
早速てっちりを2人前注文した弁護士は、ビールまで飲み始めました。残念ながら、わたしは運転もあるので、お酒を飲むわけにはいきません。

 すっかり満腹になった私たちは、おばさんのアパートにもどりました。そこへ、おばさんが買い物袋を下げて帰ってこられました。
「いやぁ~ごめんなさい。ちょっと買い物にいっとんたんよ。よかった、間に合って。どうぞおはいり下さい。」
 早速なかに入らせてもらいました。最近見かけなくなったちゃぶ台を前に二人で座ります。おばさんは台所に立ち、なにやら準備しています。
 わたしは言いました。
「奥さん、かまわんとって下さいよ。仕事で来たんですから。」
「なに言ってますのん。こんな時間ですよ。」 見ると時計は7時を回っています。
 おばさんは、何やらお盆に載せて持ってきました。濃いめのインスタントコーヒーが2杯と、お皿に山盛りのコッペパン。

「さあさあ遠慮せんと食べてください。お腹すいてますやろ。」
わたしのおなかの中で、フグがゆらゆら泳ぎ始めましたが、ニコニコとこちらをみているおばさんには言えません。
「ありがとうございます。では、遠慮なくいただきます。ちょうどお腹すいてましてん。」
弁護士は一瞬ぎょっとした顔でこちらを見ましたが、わたしは構わずコーヒーとコッペパンをどんどん口に運びました。弁護士は食べ物には見向きもせずに言いました。
「時間も遅いですから早速本題に入らせていだだきます。」
山盛りのパンを2つ3つと食べている私を横目に、手早く説明をし、サインと印鑑をもらいました。そして
「どうもありがとうございます。今後の実務は引き続きこの人がやってくれます。さ、今日はもう遅いからこれで失礼します。」
 わたしを急かせてさっさと立ち上がります。
 「どうもごちそうさまでした。おいしかったです。またお手伝いにきます。さようなら。」そう言うと、わたしは弁護士の後ろについて部屋をあとにしました。

アパートを出た私たちは車に乗りました。弁護士がまじまじと私の顔を見て言いました。
「あんたは交渉のプロやな。おばさんも満足そうやったわ。わしはようせんけど。」
「プロなんて、そんな。あの笑顔につられてですねん。」
わたしは、おなかの中で、フグがコッペパンをつっつくのを想像しながら、車のエンジンをかけ、帰路につきました。

おわり