第六話ながいながい交渉の1年 ② -青空長屋編-

 わずかにちょっとそのむかし、あるところに人がまったく住まなくなった長屋がありました。すっかり朽ち果て、骨組みだけとなった屋根からは、青空にむくむくと広がる入道雲が見えました。その長屋の向かいにある、友人の住んでいた五軒長屋の買取を進めていたわたしは、この朽ちた長屋も買い取らなければなりませんでした。そうすることで、その一帯を価値ある土地に戻しているのです。

 わたしはまず、空き家となった長屋と土地の 登記簿謄本 を取ってみました。その中の一軒は、ずいぶん古い時期に登記されていて、名義人の男性の住所はこの空き家のままでした。転居先がわからず、会いに行く手がかりがありません。そこで、わたしはいつものように近所に聞いて回ることにしました。
「こんにちは、ちょっとお尋ねしたいのですが」
 5軒ほど巡って出てきたのは80歳ぐらいのおばあさんでした。運よくそのおばあさんは昔のことを覚えてくれていて、いろいろと話してくれました。

「あんたあの長屋を買うてくれるんか。」
「ええ、そうなんです。 向かいの長屋の友人に頼まれまして。」
「そりゃあええわ。今のままじゃ物騒やからなあ。」
「そうですね。奥まっていて人目にもつきにくいですし。」
「あそこは確か50年位前に若い男が引っ越してきてな、しばらくして近所から嫁さんもらって、子供も二人できとった。」
「へーそうなんですか。」
「ところが、10年位してその男が出て行ってしまったんや。残った親子三人は大変やったろうな。それでも長いこと暮らしておったんやが、これも14,5年前に出ていってなぁ。今はどこにおるか知らんよ。でもお母さんと子供らはそんなに遠くにはいっとらんのとちゃうかな。近所の人が見かけたらしいから。」

 わたしは、その親子3人を探してみることにしました。幸いおばあさんが、そのお母さんの旧姓が「タナカ」というのを覚えていてくれました。
 それから私は、一軒一軒の名前が載る古い住宅地図を手に入れました。そして「タナカ」と記された家を数件探し出しました。 早速、真夏の太陽が照り付けるなか一軒ずつ訪ねる事にしました。
 3軒目に60歳代のご婦人がでてこられました。
「こんにちは。失礼ですが奥さんは昔、五軒長屋の向かいの長屋に住んでおられた事がおありでしょうか?」
「えっ?!なんでそんなこと聞くんですか?」と言って、戸を閉めようとします。

「いえ違うんです。私、その家を買い取らせていただきたいのです。」
「え!?」
「ちょっと話を聞いてもらえませんか?」
「はぁ」
「あの長屋は奥さんが住んでおられたんですね?」
「まぁそうですけど、あれは出て行った主人の持ち物です。私には関係ありません。」
「あぁ、そうですか。」
「あの人も10年位前に亡くなったと聞いています。なんでまたあんな荒屋を?」
「もちろん、あの一軒だけではほとんど値打ちはありません。実はその回り全体を買い取って、きれいにしようと思ってるんです。すみません、ちょっと入れてもらってもよろしいですか?」
 奥さんは静かに頷いて、ようやく玄関に入れてくれました。

「ありがとうございます。それであの家ですが、譲っていただけませんか?」
「譲ると言っても、引っ越したあとはのことは何にも知らないんです。」
「そうですか、無理もないです。でも、ご主人が亡くなっておられるなら、あの家はお子さんのモノになるんですよ。」
「え?まぁそうかもしれませんけど、あんな家、なんの価値もないんと違います?相続するにも税金とかかかるでしょう?固定資産税の滞納とか・・・。迷惑です。」
「ご心配よくわかります。確かに今は価値がないかもしれませんが、一帯を更地に戻せば価値は戻ります。 遺産相続 の事も、亡くなったご主人から、お子さんへの相続手続きもいたします。滞納があればこちらでなんとかします。お手間は取らせません。」
「えっ?」
「その上で家を買い取らせていただきたいのです。」
「はぁ。」
 ようやく奥さんは一息つかれ、私を家に上がらせてくれました。そのあと、司法書士も交えて相続等の手続きをすすめ、売買契約を結び、所有権が移転したのは、秋風がススキの穂を揺らす頃でした。

「この度はありがとうございました。あの家のことは見て見ぬ振りをしてましたから、心のつっかえが取れました。本当に感謝しています。」と、そう言っていただきました。わたしも難題を解決できて、つっかえが一つ取れました。

 事業が一歩前進し、晴れやかな気持ちになった私は、久しぶりにミステリー小説が読みたくなりました。本を小脇に、若者に混じって、お気に入りのコーヒースタンド「 KIKI LUAK 」に席を陣取りました。

〜青空長屋編〜 おわり