わずかにちょっとそのむかし、あるところに、戦前から建つ古い長屋がありました。六軒長屋のその建物は、六畳二間に台所が一つ。そこかしこに傷みが見え、すでに半分は空き家でした。その一軒に99歳のおばあさんが一人で暮らしていました。おじいさんに早く先立たれたおばあさんは、一人で三人の息子を育てたのでした。今ではすっかり年老いて、ヘルパーさんの助けを借りながら、静かに暮らしていました。

 ある日、わたしはその長屋を買い取る事にしました。前の家主が立退き交渉に失敗したからです。

 わたしはいつものように立退きの交渉に訪れました。一軒一軒、丁寧に交渉し、何とか話が進んでいきました。しかし、そのおばあさんだけは話が前に進みません。耳が不自由なのと、都合の悪い話はすぐに忘れてしまうところがあり、いつも振出しに戻るのです。

 わたしは仕方なくヘルパーさんにお願いして、おばあさんの息子さんと連絡をとることにしました。ところが、現れたのは50代の強面の面々、ヤクザ顔負けの息子さんたちでした。

「ご実家のことなんですが。」
「なんや?家を奪うつもりか?おかんを動かして死んだらお前は殺人罪やぞ!」

 「いや、そんな無茶苦茶な」
「うるさい。お前それでも人間か!?99歳にもなる老人から家を奪い取ろうなんぞ、正気やない!」
「奪うだなんて… ですから、もっと良いところへ…」
「同じことやないか!勝手なことばかり言いおって!お前の都合のええようにはならへんぞ。」
「ですから」
「うるさい!泥棒!」
「ですが、もうお母様は一人暮らしは無理ですよ。」
「ほっとけ!」

 いくら話をしても、おばあさんをその長屋から出すわけにはいかんと言うのです。おばあさんも遠慮があるのか、息子たちの世話になるのは気が進まない様子でした。結局、話は打ち切り。暗礁に乗り上げてしまいました。
 その他の借家は順調に話が進み、次々に引っ越しをされて行きました。残すはおばあさんの家だけです。手を付けられないまま半年が過ぎていきました。

 ところがある日、突然息子さんから呼び出されました。子供連れの主婦ばかりが集まるファミリーレストランに、ヤクザみたいな兄弟とわたしが向き合います。
「うん百万円払え。そしたらおかんを動かしてやる。」
 わたしはびっくりしました。他の住人の 立退き料 の何倍もするのです。どうしてそんなにも高いのか!?わたしは考えてみました。息子さんたちは、母親がこれ以上一人暮らしをするのは難しいと認めたのです。しかし、誰もが引き取ろうとはせず、老人ホームに入れようと考えたのです。ところが施設に入れる費用や引っ越し代金としては高すぎます。よくよく聞くと、自分たちの取り分まで計算に入れていた金額でした。なんという人たちでしょう。
 わたしは、これ以上交渉をしても無駄だと考え、相場を遥かに越える金額ではありましたが、満額支払う事にしました。すると強面の顔はにっこり「あとは任せとき、わしがオカンを説得しといたる。」こうなるとどちらの都合か分かりません。
 こうして交渉は成立。長引いた交渉でしたが、無事立ち退いていただきました。

その後おばあさんは元気にしているのでしょうか。本当に施設に入ったのかさえ怪しいものです。

今日は気分転換に「 フルール・ド・ニアー 」さんの花束を、妻に買って帰ることにしました。しばらく怖い人はごめんです。

おわり